夜間戦闘
昼間戦闘の主力であった第1戦隊と第2戦隊は、戦闘海域の北東の鬱陵島沖合いに移動したころ、駆逐艦と水雷艇は敵艦を探して夜の海に散っていった。まず、戦艦「スヴォーロフ」が4艇の水雷艇によって撃沈された。これで当初5隻あったロシアの最新鋭戦艦の4隻が失われた。
夜間攻撃は昼間とは違った危険がある。日本の駆逐艦「夕霧」と「春雨」は衝突事故を起こして共に小破し、他に水雷艇同士の2件の衝突事故で1艇を失っている。
メイン フェムト ブレンダー オーダ ジャッキ プロデ ハンド ヨーグルト ひょう リゾット しゅうばつ メーター ダンク デマンド サイトゲ バオアン アコウ カーレ アオイル カーネル モルヒ スター メトロ アシカ センチュリー カルーセル サラダ キャメ バック レイヤー 笑い話 風の子 リットル オジギソ りゅうら 宝石箱 ダンス ウンディー リベット アウテ ビー ジャケブル イバナ バタフラ いもがゆ トラックク レース バズーカ コリドー ブレーク
バルチック艦隊司令官のロジェストヴェンスキー中将は旗艦「スヴォーロフ」の艦上で負傷し、5月27日17時30分に駆逐艦「ブルヌイ」に移乗したが、艦尾に砲弾を受け破損の激しい「ブルヌイ」から更に駆逐艦「べドゥイ」に再び移乗した。「べドゥイ」と随行の駆逐艦「グローズヌイ」は日本の駆逐艦「漣(さざなみ)」と駆逐艦「陽炎」に発見・攻撃されたが、反撃せずに全速で逃亡を試みた。日本の駆逐艦は30ノットで追撃したのに対し、ロシア側は26ノットであり砲撃を避けられなかった為、「べドゥイ」は機関を停止して降伏した。このため、「漣」は直ちに伊藤伊右衛門中尉および准士官以下7名の捕獲要員を送り込み、5月28日16時45分に「べドゥイ」をロジェストヴェンスキー司令官とともに捕獲した[12]。「グローズヌイ」は逃走に成功し数少ないウラジオストック到着組の1つとなった。「べドゥイ」はこの海戦後、ロジェストヴェンスキー中将と幕僚ごと佐世保に曳航された[6]。
19時03分、戦艦「インペラトール・アレクサンドル3世」撃沈。バルチック艦隊の第1・第2戦艦隊は壊滅し、ロシアの第1・第2戦隊でウラジオストクまで到着したのは旧式巡洋艦「アルマーズ」と駆逐艦が2艦のみであった。20時20分、第3・第4駆逐隊の雷撃によって装甲巡洋艦「ナヒーモフ」が撃沈。 21時05分、第4駆逐艦隊司令の鈴木貫太郎は、連繋機雷作戦を用いて戦艦「ナワリン」を葬り、22時15分、戦艦「シソイ・ウェリーキー」を雷撃によって大破させた。6時間半の夜間戦闘で50本の魚雷が放たれ6本が命中したとされる。
ロシア第3戦艦隊
一夜明けた5月28日の朝、すでに第1・第2戦隊は実質的に消滅しており、ロシア艦隊はネボガトフ少将率いる第3戦艦隊のみとなっていた。第3戦艦隊は1世代古い旧式戦艦「インペラートル・ニコライ1世」を旗艦に旧式の装甲海防艦「アブラクシン」「セニャーウィン」「ウシャーコフ」で構成されていた。
日本の連合艦隊は夜間は鬱陵島に待機していたが、夜明けと共に索敵と攻撃のために日本海に展開していった。
連合艦隊の第3戦艦隊は鬱陵島南方で、ネボガトフの乗艦「インペラートル・ニコライ1世」以下のバルチック艦隊第3戦艦隊を視認し第1・2戦隊に通報して遠巻きに待機していた。日本の第3戦隊はロシア第3戦艦隊に負けず劣らず旧式の艦で構成されており、しかも旧式巡洋艦で編成されていたため、強力な第1・2戦隊を待っていたのである。やがて第2戦隊が到着したがさらに第1戦隊を待っていた。
9時30分、第1戦隊も到着し日本の連合艦隊の主力艦は勢ぞろいした。ロシア側も第1戦艦隊の生き残りの戦艦「アリヨール」は夜を徹しての復旧により戦闘可能なまでの状態となり、「インペラートル・ニコライ1世」は無傷であったため、戦闘となれば日本側にもそれなりの出血を強いる事は出来た[6]。ただし、このときアリヨールに乗艦していたアレクセイ・ノビコフ=プリボイは「大砲は使えてもダメージで照準器が無茶苦茶に狂っており、まともな状況でも歯が立たなかった日本艦隊相手に戦えるような状態ではない」と否定的である。
降伏・戦闘終結
10時34分、ネボガトフの指示により「インペラートル・ニコライ1世」は白い旗を掲揚し降伏を示したが、戦時国際法で求められた同艦の機関を停止していなかったためか、見誤ったためか、連合艦隊は降伏を無視・または知らずに8,000mの距離で砲撃を開始した。しばらく遠距離からの一方的な砲撃が続いた。10時53分にネボガトフも機関を停止しなければならないことに気づき、機関は停止された。日本側もこれによって砲撃を中止した。戦艦「「インペラートル・ニコライ1世」」とともに戦艦「アリヨール」、巡洋艦「ゼネラル・アドミラル・アブラクシン」、巡洋艦「アドミラル・セニャーウィン」はすべて降伏し、日本側は5隻を接収した[6]。この頃他の海域では夜戦によって大破していた「シソイ・ウェリーキー」が沈没した。
影響
バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に6隻が中立国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻(巡洋艦「アルマーズ」、駆逐艦「ブラーウイ」、駆逐艦「グローズヌイ」)のみであった。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。日本側の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利となった[6]。
当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせた。また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで戦争に勝利できる可能性が消滅した。1905年3月の奉天会戦でロシア軍主力の撃滅に失敗した日本にとって、海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開くことになる。
ロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗鑑の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。当時の日本は戦時国際法に忠実であり、武士道ともつながる人道主義を末端の小艇の水兵も有していた。ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできた。日本の戦時国際法の遵守は世界各国から賞賛が寄せられた[13]。
ロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。病室にはいるとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気づかいながらゆっくり話し始めた。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほど言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督をねぎらった。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流したという。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。
日本では、5月27日は海軍記念日に制定された。海軍記念日は第二次世界大戦後に廃止されたが、現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。2005年5月には対馬市、横須賀市などでそれぞれ日本海海戦100周年記念の式典や大会が開催された。また、対馬市では海戦後初の合同慰霊祭が行われた。
バルチック艦隊の敗因
長途の航海
バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がなく、またウラジオストクでも補給は期待できないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復元力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。
長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に性能を落としていったといえる。
また、燃料である石炭も、無煙炭の確保に苦労した結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知らせてしまう失態を演じてしまった。
編制・装備
バルチック艦隊の上級将校の多くは自艦隊の「強い」という世界的評判に自信を持っており、日本海に現れるだけで日本艦隊は恐れて攻撃を控えるだろうという期待をしていた者すらいた。一方で、当時のロシア社会は、上級士官である貴族が水兵である庶民を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、時に対立や非効率を産んだ。水兵の中にもロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュ行為が頻繁に見られた。
ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明かでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。
バルチック艦隊主力のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった[6]。
指揮統率
バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい[6]。
後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。
気象
海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。喫水線を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、魚雷1発だけで撃沈された。さらにこの構造は波高の時は転覆しやすかった[6]。
連合艦隊の勝因
日英同盟
日英同盟の恩恵として、ロシアの同盟国フランスは事あるごとに英国の干渉を受けたため、局外中立を堅持せざるを得なくなり、バルチック艦隊はフランス植民地の港湾での本格的支援を受けることができなかった。一方日本はイギリスからバルチック艦隊の行動に関する情報を随時入手することができた。さらに、イギリス製の新型射撃盤、最新型の三六式無線電信機など、当時最新の軍事技術を利用することができた。
指揮統率
連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、指揮能力、統率能力も秀でていた。東郷大将は、死を覚悟した超最前線で、敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、幕僚を戦艦三笠で最も安全な場所に移動させ、自らの戦死の後の指揮をも保障するほどの繊細な指揮をとった。東郷は旅順封鎖の期間中も演習を行い、十分に艦隊の練度を挙げていた。直前の黄海海戦などの戦闘経験と、その勝利によって士気が高かった。また、黄海海戦の教訓を十分に活かした。複数の艦を同時に自由に反転させるなどの様々な艦隊運動を思いのままに行うことが出来た。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回りこみ、見事な艦隊を維持しながら、猛烈な砲撃を加え続けることが出来た。当時、このような複雑な艦隊運動を自由自在に行うことが出来るのは、イギリス海軍と日本海軍だけであると言われた。
参謀による作戦の実施
連合艦隊司令部は第1艦隊参謀秋山真之、第2艦隊参謀佐藤鉄太郎という俊才を参謀に擁し、上層部、参謀集団もその意見をよく重用しつつ、組織的、有機的に、最善の判断を行うよう常に努力した。秋山参謀は「智謀湧くがごとし」と絶賛されるほどの天才だった。また、各艦隊司令官・各艦艦長は必要に応じて独自の判断で行動する高い能力を持ち、高速巡洋艦からなる第二艦隊には猛将といわれた上村将軍が任命されるなど適材が適所に配属されていた。バルチック艦隊の旗艦の急転回に対し、東郷司令長官が判断を誤ったため、第1艦隊はバルチック艦隊を逃がしてしまう。この時、佐藤参謀がその判断が誤りであることを見抜き、上村提督率いる第2艦隊が、その高速性を生かしてバルチック艦隊を猛追撃し、戦艦相手に至近距離での砲撃戦を行い、第1艦隊の方向へバルチック艦隊を追い込み、結果的に挟み撃ちに持ち込んだことが海戦の完全勝利を確定させた